新年ハオと世界の終わり
あけましておめでとうございます。
みなさん、そこんとこひとつよろしくお願いします。
元日にふさわしい一文をしたためようと思ったがそもそも私はおめでたい人間ではなかった。
アタマの方はかなりおめでたいし運も悪くはないと思い込んでいるが、それはさておく。
どれぐらいオメデタクないかと言うと先日、とあることで経口にて結構な量の血を吐いたのだがその血の赤さを見て、生きているって素晴らしい。と考えるぐらいオメデタクない。おめでたければそれで何某かの病を心配したり直ぐに病院に駆け込んだりするのだろうが生きている実感が薄れつつあったので先ずやったことはスマホのカメラでそれを撮影することとティッシュでそれを拭き取ることだった。
後ろ半分は常識的だが、前半部においてはちょっとアンタ大丈夫?という感じだ。
知人のT君がタトゥーを入れて痛みを感じて以来グロいものが見れなくなった、と言っていたがその見事なタトゥーに比して痛いことで肉体を復権させたのだから三島由紀夫が肉体改造に励んだぐらいそれはおめでたいことだと思うし、当然の感覚だとも思う。
オメデタクない私は血を見て我を見る(木を見て森も見る的)ぐらい肉体が既に喪失感マックスなのであって、もちろん生活に支障がない程度に身体を維持できているからこそなのだろうが全き、ダメ絶対、ここはどこ?わたしのカラダはどこかいな?という不幸とすら言えないところがオメデタクない。自分の血は新鮮だが人の血を見ても何も思わない。ので先述のT君とは違いスプラッターだろうがゴアだろうが他人の鮮血が私にダイブしてこない限り平気だ。
1999年に世界が終わると信じていた私のようなかつての純真キッズにしてみれば21世紀はすべからく余興である。
で、この私的にはエクストラタイムの茶番が20年目を迎えた。
みなさまにおかれてましては輝かしい2020年がはじまったわけだが五輪だのなんだのどうもややこしそうな気配はするし、先進諸国は皆々ほとんど先行きが不透明らしい。科学万能のらららの子も裏切られ、政治もクソだし、人間の再生産はこの国でも行き詰まってるし、いとおかしみとつらみマックスである。
とは言え、よるとしなみと言うのはよく出来たもので、世界が破滅するというのは世界規模のパンデミックだの核戦争だの大陸プレート移動だの、隕石が飛んでくるだののイメージだったがどうにも世界はずるずると継続していき、確率としては世界がそんな目に合う前にこっちの肉体や精神がくたばる方が早そうだと言うことは悟りつつある。
自分自身にとって世界の終わりは自己が認識できないことでヘビーな認知症や死を意味する。そしたら兎も角も私にとっての世界は終わり、世界は消失する。
って言う映画もあった。
まあ世界がマイルドに悪くなるうちに、マイルドに良くなる部分もあり多くの先進諸国のみなさまにおかれましては、もーにっちもさっちも行かねえよ。と思ってるが、何とかなるようにしかならないし、それでも他人さまが若いとか、国の発展がこれからとか、その他もろもろのさまざまな方々にとって新年はめでたい。
かつて私にもあったキッズ時代の夏休みのラジオ体操が意味なくめでたく輝かしいものだったように。
新年ハオ、謹賀新年。
未来ある全てのものに幸あれかし。