工場長の考えてること

工場長の考えてることを脳みそ直だしです。

当事者性と語られることの間【社会学の一つの先へ】

自分のことを社会学徒だと思っている。

しかしながら、学校では寄り道を沢山させられた。

いまさらなら幸いと思う。が、社会学専門の教師が少なかったため国体や憲政史(それゆえに戦後史のレポートを書かなきゃいかなかった)さらに法哲学(なんでアリストテレスや国家論の法哲学のレポート書いたのか)人文地理や心理学などをある意味偏って教えてもらったため、人文社会科学の総合格闘技っぷりがついたのが良かったと思うのは社会人になってしばらく後のことだった。

 

それはさておき。

当事者が語ることが多くなった。それ自体は本当に良いことだし、ブログなりSNSなりで発信できることも(その一方で当事者には負担がかかったりするし、嫌がらせもあるが)良いことだ。

 

大学のN先生に君はこれが好きだと思うと、当時まだ珍しかったエスノメソドロジーの邦訳本を渡された。まだ返却できてない。今や名誉教授のN先生。すんません。

それ以来、フーコーを中心としていた研究生活はオーラルヒストリーやインタビューやインタラクションでの微視的権力の方に視野が広がった。

聞き取りや書き取り、そのある部分の文字起こしや解釈の方に関心は移って言った。もちろんフーコーは居る。リフレクティングプロセスやオープンダイアログ、当事者研究へと伸びた。全く縁もゆかりもないが、ラカニアンからオープンダイアログへ向かった斉藤環先生と同じ道を歩んでいるようだった。わたしはフーコーから微視的権力としての空間、会話へ向かったので一方的に親近感があるに過ぎないけれども。

 

当事者と呼ばれる人々が自身について語るとき、当たり前であるがその現象。例えばDVやハラスメント、障害などのトピックを求められ、話の中心になることは多い。

無論可視化出来なかった当事者の何かを見つけることによって、社会的解決に向かうことはある。

 

しかし聞き取りや傾聴、オーラルなことに関心を持てばもつほど本人によって編集されてしまうことの多さを感じることがある。実際の諸相はもっと細かなところ「こぼれ落ちる現実の些細なこと」にも意味が関わっていて、それらを省いて「わかりやすくしてしまうこと」の恐怖を感じる。

 

それは不倫ですね、ハラスメントですね、何かですね、とカテゴライズすること。それ自体からこぼれ落ちる何かについても更に包摂を目指すこと。それ自体が社会学の営為ではないかと最近特に感じる。

 

共感や理解というのは恐ろしい装置だ。

短絡化と単純化の果てに救われるものがあるとしても、さらに先にも人間の感情の営みをまだなおあるということを拒絶する可能性は高い。

在る、ことに理由がありさえすればたとえなくても(それが理解不可能であっても)何らかの記憶と記録と参与を目指すのが社会学の出来もしない一つの目標ではないかと考えだしてきた。

 

行動は尊い。変化も尊い。モデル化も理論化も尊い

だけどまた人間の可能性が過去と現在、未来に渡って可能で在ることを表出すること。

時折、単純化に抵抗することが社会学徒の使命ではないかと考える。

時にそれは学問ではないと言われても、常にメタが存在することそのものが記録と表出、表現の可能性だと信じるのだった。