工場長の考えてること

工場長の考えてることを脳みそ直だしです。

分断と言うより軸はどこ?。。。感情論を超えて

ほぼわたしは日本の地上波を見なくて、テレビで見るニュースソースはCNNなどのアメリカ、BBCなどの欧州に偏っています。

これは単にわたしが多少なりとも英語しか出来ないことから、なのですがに日本でお金を払ってリアルタイムに合法的に鑑賞できる放送局が限られているという事情もあります。

自国の政治を抜きにすれば直感で気にかかっているのは英国で🇬🇧どうも決選投票でボリスジョンソン元外相が首相になりそうです。

彼は10月31日のEU脱退を公約しており、ハードブレグジットがかなり濃厚になりつつあります。

わたしはテリーザ・メイ元首相の案ももちろん、彼女の政治的な立ち居振る舞いに問題は多かったとはいえ、アイルランド問題だけを解決すれば中身は現雑的なものと評価していました。ソフトランディングの最後の方法。とも考えていました。

 

英米日、これらは実際のところ感情的な政治が行われていると感じる日々が多々あります。「対立を煽っている」という評価が正しいかは少し分からないところがあります。というのも対立の軸そのものが日々アップデートされ、いったい誰がどのようにその政策の恩恵を受け、恩恵を受けないのかがその国の国民に伝わらなくなってしまっているように感じます。

身近な人にわたしを

「民主主義のバグ」と話しています。

 

規模が大きくなってしまった国民国家において、すべての人々への恩恵は限られたリソースで政治ができるわけはありません。

そうなると、その自分にとって、家族にとって、コミュニティにとって、住む地域にとって、もっと大きな自治体にとって。

メリットデメリットを伝えるのは容易ではありません。

無論、そのために専門家が数字や資料を駆使してバランスの取れた解説が必要ですし、ジャーナリズムはその権力者(たとえ野党であっても)を監視し、批判し修正していくきっかけを有権者に伝える必要があります。

 

しかしこれらに対して多くの人々がいちいちキチンと認識できるかは生活時間もありとても難しいことです。

するとさも、総花的な良さを伝えるのは【普通の】政治家と、強い言葉。あるいは宗教や信念に対してある種の盲目的価値観を持ってしまう人々によって動かされてしまうことになります。

 

英国の心配をしている場合ではないのですが、間もなく日本も参議院選挙があります。

わたしも含めてですが、軸と言ってもそれには射程があること。単なる誰かだけに良いものであるかどうかを考えること。

コピーみたいな総花の美辞麗句に騙されず、一体何が実現できるかを家族、コミュニティから考えてみること。

そして、軸をアップデートし、より広範な想像力を持つこと。

わたしはニュースソースが限られていながらも批判的にかつ自分の中での公正さをもって、ニュースにも選挙にも臨みたいと考えています。

陰謀論よりも嫉妬よりも繋がっているだけの賛同者よりも、より幅広い軸を自分の中で消化することが、分断と言う軸を勝手に動かされてしまう、そうまるでサッカーのゴールポストが後で動いてしまわないように。

 

そのことにとても自戒と反省(むしろ、レビューかもしれません)を胸に秘め、自分の政治行動も考えなければと思うのでした。

 

熱狂は落胆を生み、政治家や権力者、ロビーストを除き敵は本当はそんなに多くない。

 

そんなことを考える朝でした。

ネットで食べると言うこと

もともとの仕事からネット関係の仕事になってかなりたつ。

東京を捨てた人の話に便乗するわけではないが(してるか)、こんなに長いことネット関係の仕事をしていると感じるのは稼ぐ手段がめちゃくちゃ早い速度で変わっていると言うことである。

携帯、ネット広告、スマホアプリ、アフィリエイト。PR、動画。

数えだしたらキリがないが、兎にも角にも稼ぐ手段があっちからこっち、はたまた新しいメディア、課金方法の違いと変化し続けていてネットで稼ぐ具体的な方法でいまだに不変なものと言ったら株式取引ぐらいしか思いつかない(とはいえ損もする)。

そして詐欺的な手法というのはガラケー時代から多数存在していた。個人、法人を問わず。iモードサイトを買い漁っていた会社もいれば、個人情報を買ったり売ったり、最近のオレオレとかフィッシングに限らず幸福にも持ちかけられたことはあっても関わったことはないが、それによって身を持ち崩したりいなくなってしまった人も多数見てきた。

私自身も紙媒体よりはるかに原稿料が下がるのでネットではライターをやっていない。思いついた時に寄稿する程度で取材費すら出ないし愚かなサイトのようにバズればデマすらやるものもいるしね。

その間、副業はやっていたとしても会社に所属していなかった期間はなかったので、社畜ということになるが「ネットで稼ぐ」が会社員をやめると言うことと同義になるのが全く分からない。

また「ネットで稼ぐ」が芸能人のような活動になるのも実に味わい深いとは思うものの分からない。

 

ネット以外の仕事もしているので思うのだが、不変の事実は最終的なお客さんがお財布を開いてお金を払ってくれる、自分たちでもそうだが金を払う、と言う行為無くしてどんなビジネスも成立しない。なのでかわりに変わる広告だけに頼ったりとか他のシステムでも良いんだけど、「脱社畜」ではあっても「システム依存の家畜」と言う風に思ってしまう。て言うかそうだろうと思う。ただし自分自身でお金を顧客からいただけるだけのコンテンツを作れる人は違うだろうが。ま、それは舞台に立つ人とかなので実質芸能の人か。

 

炎上だろうがなんだろうが、そして紙メディアが滅びようがなんだろうが最終的に個人事業主になるには誰かのお財布を開かせる必要があると考えるし、もしも全くそれに触れないビジネスはネットの歴史的に長持ちはしない。

この業界だけ経験で言うのではないが、最終的な顧客がなんだかよく分からない、金流、商流のないもののほとんどが詐欺的な要素を持っていると思う。そんなもんに古いも新しいもない。単に姿かたちが変わったに過ぎないと考える。

 

 

 

 

ロンドン素描1多分

 

仕事で行った場所は書けないのだけど。ロンドンは私用で行った。観光?なんとなく過去いた場所なので観測的に街の空気を吸いに。それほど長居はしなかった。

最後に訪れたのは震災より前でテムズの再開発はひとあたり終わっていたので8年ぶりだと思う。オリンピックの前で急速な開発中という意味では往事のロンドンと今の東京と同じなのかも知れん。

宿泊したブルームズベリーのホテルはアメリカ風らしいが、日本のビジネス・ホテルと同じでありがちに石鹸しか置いておらず、むかいのよろず屋的なコンビニ的なロンドン土産から軽食まで。が店構えは古臭い。。の白人(当地では白人だから移民でないとは限らない)のお姉さんにバスジェルとかなんにもなくてねえ、と話すと。そうなのよ!だからみんなここへ買いに来るのよ。と軽く笑っていた。バスジェルと飲み物をもらう。ここは23時で閉店する。もう一軒24時間のよろず屋がありそちらのほうが品揃えが良く、ランランと電気がつき店構えは今風だが、インド系の店員はひたすら不機嫌そうでもう一軒のよろず屋と店構えとが逆なのがおかしい。まあ接客態度を安い店に求めるほうがおかしい。しかし23時を過ぎるといかにも素行のよくなさそうな男女4人やせてるのと太ってるの極端な彼ら彼女らやアル中が店の前でたむろするのできっと愛想はセキュリティで使い果たしたんだろうと思う。

ホテルはwifiをうたっているが20MB!まで無料、それ以上は有料という驚がくのおもてなしだったので10gbで1か月有効のPayasのを使う。

良くも悪くも。むしろ良くなったほうが多いかロンドンらしさは失われてなかった。

街中にそこかしこを歩けば公園があり、慢性的なCItyやその周りの渋滞にもかかわらず公園や古い建物を破壊してまで道路を拡張する気はゼロである。公園は必ずベンチがあり東京みたいにホームレス対策で座れないようにする気もまるでゼロ。

ホームレスがいないわけでも(実際私はビッグ・イシューをかっている)ないのだが公園とベンチは福祉の必須条件だという確固たる自信がすごい。もちろん世界の観光を名乗る都市でちょいと座るところがないほうが異常だ。

レストランはすべて付加価値税がかかってしまうので、安く済ますならto goでベンチで食うのは普通。出店の近くにベンチがないほうがおかしい。それがロンドン基準。仕立の良いスーツでの判断だが忙しい金融マンは歩きながら食ってるのを見た。

テムズの再開発エリアは、テートの横だが混沌としててベンチャー向けの立ち食いマーケットがあったりIT下町の様相を呈していた。気がつけばそこは多分旧The Design museamの跡か。過去行ったFinancialTimesの新ビルがやや古顔になっていて、時の流れを感じる。

ビジターである私はVATも気にせず、昼飯だが勘だけで美味げな店に入った。デビルフィッシュのフリッターもスープもうまし。

店外にはto Goの若いIT従業員が列をなしていた。

 

気が乗ったらまた書く。

 

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最先端でも手仕事や手触りの感覚は大事だということ。

工場長です。

仕事は先端ぽいのやってます。確かに。だけれども、もう大して若くはないので。いやむしろ若い時からからかもしれないけど先端が新しいアイデアだけでは出来ないと思ってきました。

あ、イベントみたいにものすごいアナログのもありますが、あれは仕事かな?

 

馴染む。という言葉があります。手だったり、耳や目の感覚だったり、色々なものが混じっています。デザインの先端は確かに格好良いのですが、スタイルだけでは生活に馴染みません。そこには様々な感覚の人の馴染みがありますから。そういう時、柳宗理だったり、ロングセラーのデザインの形ではなくて、なんで馴染むのかな。を自分の基準にすることがあります。

日本の技術者はつい、機能追加とそれを使いやすく。という順番の間違えた、私から見るとですが、そういう手法を多く使ってきました。

しかし、この馴染む。という感覚は長年の多くの人の見えない知恵によって洗練も、ノイズも加わったものです。もちろん、合わない人もあるでしょうが、多くの人の使うときの安心感、馴染む、に近づくとき。それらは考えなくてははならない私の仕事です。人の生活は今も行われているのですから。

 

柳宗理だけでなく、ジャスパーモリソン、深澤直人、最小限住宅の清家清、バウハウス以降の方も多くのデザイナーほかを参考にさせてもらってます。もちろん、他の分野方も。

アノニマスデザインという形態だけでなく、それが馴染むにはアフォーダンスも必要です。そしてかつ、最初使いにくくても経験でそれらを馴染ませていくプロセスも考えたりします。私は用土の美よりも。馴染んでくれるテクノロジーを馴染んでくれるコミュニケーションを仕事の基準に沿えています。それは私のような企画者が頭でっかちで考えても顔の見えないリサーチもあまり使えないからです。

 

IoT。インターネットオブシングス。ネットにつながる機器が出てくるでしょう。

私はこれらが生活者の感覚に馴染む。よく分からないけど信用できる。

私のような小さな会社のできることは機能を超えた、馴染み。そしてそれが信用でき、安心につながること。を事業責任者の私は常に模索しているんですよ。。

モノやサービスを作るとき、長く愛してもらえるには、生活の当たり前に役立つだけでなく。馴染む、そして使い続けられる。そんなことを自身の仕事の中で心がけています。

 

だから私はIoTでもサーバさでも。その時代のテクノロジーを使った民芸と捉えています。

使いこなす必要はなく、馴染むところからとつとつと使う。。それで良いのだと思います。

 

こんなに技術が発展して、馴染みはしないが確かに機能はすごくやくにたつけれど。生活者に馴染まず使わなくなって仕舞えばいずれ消えていってしまうと思うのです。

 

馴染んでからこそ最先端は見えなくなるのでしょう。

それで言えば人に聞いたら人に触ってもらったり、感じてもらうこともわたしには調査で感覚としての馴染みを探し続けています。自分は透明人間で。

 

掛け声だけでなく、人の感覚にも生活にも馴染むテクノロジーを使っていきたいと思います。

これはつまり私にとっては手仕事です。技術を使うかコミュニケーションを使うか、反省し改良するかはどんどんやっていても。やっていることは人間との手の交流とコミュニケーションなのです。

多分このIT業界には珍しいかもしれませんが、私はおそらくそういう手間をする意識があるだけで手仕事の人だと思います。

 

予告。下書きしてるのですが

私のものの調査法。

コミュニケーションの調査法。

場所の調査法。をアップしたいと思います。

近日あげますので良かったらお読みください。

 

 

 

 

 

表現に過度の政治や信条を投影してしまうということ

少し、米国アカデミー賞の歴史を振り返り調べました。

 

アカデミー賞は今でこそ政治的な意義を持つものですが、歴史的には80年代までほとんどありませんでした。きっかけはやはりレーガン政権とベトナムの傷でそれはアメリカ社会が好景気に沸き立つも忘れられた人々の映画が出てきたからでした。

 

赤狩りの時代があったとしても黄金期はそれらに触れることはほとんどなかったのです。口火を切ったシャーリーマクレーンや、マーロンブランドまで、いやそれすら特殊で本当に少なかったのです。

 

もちろん表現者は多くのメッセージを含みます。そしてそれがプロテストであったり何かを考えさせてくれたりということはあります。

 

そして、賞レースなど関係ないB級映画でもそれらをチクリと含ませることも少なくありません。ランボーはアクション映画ですが、ベトナム帰還兵の悲哀を直接示しているセリフがあります。

 

だけれども私は思うのです。表現のいちいちは全てコントロールされて計算づくで政治的な意味を持つものではないと。大きなテーマがそうであれ、様々な意味を多面的に持つゆえに映画やそして絵画や他のアート、エンターテイメントもそうですけど。感動も、泣きも笑いも怒りもあるのです。

最も政治的なムーア監督の作品であれ、ユーモアには溢れていました。

 

表現を細かに説明する表現者はいません。開かれた表現は鑑賞者の心の中で完成するのです。

いちいち全部を説明する表現者がいたら作品にする意味はないでしょう。ことばで行えば良いのですから。

 

ですから全ての表現は鑑賞者のこころを動かすために作られていると思います。

 

過度の政治性を感じるのだとしたら鑑賞者のこころの鏡に写り込んだ何かを見つけてしまうのでしょう。

それをいけないと私は言えませんが、開かれている以上、その解釈は個々人に委ねられている、少なくとも心ある表現者はそうしていると思います。

 

メッセージしかない映画は大衆洗脳。プロパガンダになってしまいますから。

 

アカデミー賞から政治的なものが薄れる時むしろアメリカは平和なのだと思うのでした。

 

 

 

 

長い道のり

私は主義という言葉は誤訳ではないかと思ってます。

どうも、この国の人は主義がその人の属性と思い込んでるのではないかと。

 

反知性、知性。分断を生み出します。

 

人は自分が信じるものから離脱するのは大変です。私が以前書いたオープンダイアログは専門性からの離脱が重要です。対話ももちろん、型にははめません。

 

今、政治で大変なことが起きています。あえて、その評価はしませんが差別主義者を除き、様々に信じているものが変わってる局面であります。

 

そういう時に、正しいデータをそして出来るだけ正確な事実を伝えて判断してもらうことはとても大事ですが、それだけでもし自分の正しさが間違っていても考えを変えてもらうことが可能でしょうか。

 

医療だけではなく、多くの事実に基づかないものが氾濫する中人々が信じたいものを信じる自由はあります。

 

その上で対話し、包摂し、時に譲歩し、様々な紆余曲折を経て。ある程度。の多くの人が納得いくためのプロセスは可能なのか。私も自戒も含め、何かのせいにしたい。何かにすがりたい例えば自分の提示するデータの信頼性。そういう誘惑にかられます。

 

それでもそんなことは気持ちをエモーションを動かすことはできないでしょう。

 

それではキツイ言葉で、説得で、あるいは信じさせたら尚更反発を生むでしょう。ある人々は理屈っぽいことすら嫌なのですし、ある人は問題を単純化したいのです。扇動は破壊しか生みません。

 

そのような中、コミュニケーションが対話がまるで個々人の心を動かす過程のようになるには本当に長い道のりが必要だと考えています。

 

ふるまい、態度。そしてことば。生活。

 

一つ一つを尊重しつつ。今目の前に起きていることにどのように関係できるのか。

本当に悩んでいます。

 

多分、方法は一つではないので。できる場所でできることを。これは私がある映画を応援するために言い続けたことですが、それしかないのかと思いながらも。長い道をどのように歩くのか。少し途方には暮れています。

 

 

 

 

ネットで争うということ、抗うということ、あるいは和解について

過去には大型掲示板、現在ではSNS。大きく分けてデマ、あるいは見解の相違。これは主に健康や安全、陰謀、アメリカではオルタナティブファクト。日本ではフェイクニュース。というものがあります。WELQや民間療法などから政治まで幅広くあります。もう一つは政治、あるいは思想、フェミニズムや性被害ジェンダー、ヘイト、外国人排斥などの考え方の異なるものがこういう対立というのか、分断と言うのか。あるいは争い、叩き合い、が進んできてしまっています。

 

もちろん全てにおいて正しいと言うことがない以上。これは科学的証拠であれ、歴史的、或いは政治的、思想的。全てにおいて暫定的な正しさしかありません。暫定的な正しさと言っても様々な研究者。或いは標準医療や、プラセボ、ノセボ、などは確率的統計的な暫定の正しさはあります。

また歴史や思想においても研究によって、こう言うことであろう。というものはあります。民主主義や資本主義という日本の根幹的な価値を真っ向から否定できる方はいないでしょうし、ヘイトや差別は法的にも禁止されています。

 

私の志向はツイッターなどを見ていただければ分かると思いますが、ここでは触れません。

 

ここで取り上げたいことは、考えによらず議論に向かない、或いは深まらないSNSでどのように和解や対話による最低でも分断されない、また実害を及ぼしそうなものについてどうしたら良いのかです。

 

私の悲しく思うところは考えによらず、強い言葉で相手を組み伏せよう、叩こうという意思が見られることです。また断片では語り得ぬことが誤って伝わり、また叩くというところに向かうところです。もちろんフェイクを流すものも大きな影響を与えてしまっていますし、メディアは都合の良い時だけ信じたり、信じられなくなったりします。

 

文字は意味を伝える時に肉声は届きません。また時に感情的になることもあるでしょう。そして、事実というのを一つとっても様々な解釈が可能でそれを阻害することは難しい。

 

それではどうしたら良いのか。私の一つの考えは対話、ダイアローグが文字によらず匿名でも構わないのですが音声や他のニュアンスで交わされることです。

忙しい現代でどんどんメディアもメッセージも短くなりますが複数人による対話、せめて肉声で語られ聞くなら少しは解決の糸口、あるいは暴言妄言は減らせるなどのチャンスが掴めるように思うのです。

 

今、私の仕事では直接これは出来ません。また肉声でもどのような進行、司会の人、仲介者、などが必要になるでしょう。そして、これらについてある種の投げっぱなしからやり取りへの移行をいつかやりたいと思ってます。

広義にはこれは福祉かもしれませんし、社会問題の解決かもしれません。

しかし、このストレス社会においてあらゆる不条理が蔓延する日本社会でどのように和解の場をネットで出来るのか。ずっと考え続けています。

もちろん出来るだけ正しいことを伝え対抗言説を行なっている人はいます。しかし、正しさこそに反発している方にそれは届くかというと少し絶望的な気分になります。

 

コミュニケーションの非対称が生み出す憎しみの連鎖をどのように包摂し、少なくとも話すことが可能になること。

これがソーシャルメディアに求められているように考えます。

ニュースサイトでもなく、メディアでもなく、説得でもなく。そのような包摂を夢見ていますが、今時点で私が全てそれに配慮したものを考えついている訳ではありません。

ネットが続く以上。これは私の中で考え続けなければならない宿題と考えています。