工場長の考えてること

工場長の考えてることを脳みそ直だしです。

表現に過度の政治や信条を投影してしまうということ

少し、米国アカデミー賞の歴史を振り返り調べました。

 

アカデミー賞は今でこそ政治的な意義を持つものですが、歴史的には80年代までほとんどありませんでした。きっかけはやはりレーガン政権とベトナムの傷でそれはアメリカ社会が好景気に沸き立つも忘れられた人々の映画が出てきたからでした。

 

赤狩りの時代があったとしても黄金期はそれらに触れることはほとんどなかったのです。口火を切ったシャーリーマクレーンや、マーロンブランドまで、いやそれすら特殊で本当に少なかったのです。

 

もちろん表現者は多くのメッセージを含みます。そしてそれがプロテストであったり何かを考えさせてくれたりということはあります。

 

そして、賞レースなど関係ないB級映画でもそれらをチクリと含ませることも少なくありません。ランボーはアクション映画ですが、ベトナム帰還兵の悲哀を直接示しているセリフがあります。

 

だけれども私は思うのです。表現のいちいちは全てコントロールされて計算づくで政治的な意味を持つものではないと。大きなテーマがそうであれ、様々な意味を多面的に持つゆえに映画やそして絵画や他のアート、エンターテイメントもそうですけど。感動も、泣きも笑いも怒りもあるのです。

最も政治的なムーア監督の作品であれ、ユーモアには溢れていました。

 

表現を細かに説明する表現者はいません。開かれた表現は鑑賞者の心の中で完成するのです。

いちいち全部を説明する表現者がいたら作品にする意味はないでしょう。ことばで行えば良いのですから。

 

ですから全ての表現は鑑賞者のこころを動かすために作られていると思います。

 

過度の政治性を感じるのだとしたら鑑賞者のこころの鏡に写り込んだ何かを見つけてしまうのでしょう。

それをいけないと私は言えませんが、開かれている以上、その解釈は個々人に委ねられている、少なくとも心ある表現者はそうしていると思います。

 

メッセージしかない映画は大衆洗脳。プロパガンダになってしまいますから。

 

アカデミー賞から政治的なものが薄れる時むしろアメリカは平和なのだと思うのでした。