長い道のり
私は主義という言葉は誤訳ではないかと思ってます。
どうも、この国の人は主義がその人の属性と思い込んでるのではないかと。
反知性、知性。分断を生み出します。
人は自分が信じるものから離脱するのは大変です。私が以前書いたオープンダイアログは専門性からの離脱が重要です。対話ももちろん、型にははめません。
今、政治で大変なことが起きています。あえて、その評価はしませんが差別主義者を除き、様々に信じているものが変わってる局面であります。
そういう時に、正しいデータをそして出来るだけ正確な事実を伝えて判断してもらうことはとても大事ですが、それだけでもし自分の正しさが間違っていても考えを変えてもらうことが可能でしょうか。
医療だけではなく、多くの事実に基づかないものが氾濫する中人々が信じたいものを信じる自由はあります。
その上で対話し、包摂し、時に譲歩し、様々な紆余曲折を経て。ある程度。の多くの人が納得いくためのプロセスは可能なのか。私も自戒も含め、何かのせいにしたい。何かにすがりたい例えば自分の提示するデータの信頼性。そういう誘惑にかられます。
それでもそんなことは気持ちをエモーションを動かすことはできないでしょう。
それではキツイ言葉で、説得で、あるいは信じさせたら尚更反発を生むでしょう。ある人々は理屈っぽいことすら嫌なのですし、ある人は問題を単純化したいのです。扇動は破壊しか生みません。
そのような中、コミュニケーションが対話がまるで個々人の心を動かす過程のようになるには本当に長い道のりが必要だと考えています。
ふるまい、態度。そしてことば。生活。
一つ一つを尊重しつつ。今目の前に起きていることにどのように関係できるのか。
本当に悩んでいます。
多分、方法は一つではないので。できる場所でできることを。これは私がある映画を応援するために言い続けたことですが、それしかないのかと思いながらも。長い道をどのように歩くのか。少し途方には暮れています。