工場長の考えてること

工場長の考えてることを脳みそ直だしです。

焼き鳥の価値

家から5分ぐらいのところに焼き鳥屋がある。

もう、若くはないご主人とおかみさんで回している東京の下町にあるような店だ。

 

高級店ほど、ものすごく美味しいわけでもないが、良心的な価格。個人店なのでそれほど焼き鳥の種類があるわけでもない。良くて10ぐらい。串打ちをして、毎日仕込みをしていると思う。中でも新鮮度が勝負のレバーは上手い。また焼き加減がいのちの皮や手羽串もうまい。

炭火で焼き立てはことのほかうまい。

 

焼き鳥といえば、最近コンビニやチェーンのどんぶりやなどでも焼き鳥を売るようになった。基本的にはセントラルキッチンで焼きまでしたものを温めているものだろうが、費用対効果で言えば家でつまむなら充分かもしれない。

で、あるけれども。わたしにはパリッとか新鮮とかは感じない。もちろん前住の通り「焼き鳥をとりあえず食べたい」には必要十分なのだけれど。

 

ラーメンがそうだった。専門店はスタンダードなうまさより、高価格帯の「特色あるラーメン」に走っていった。その結果、多くの「普通のラーメン」東京だ言えば中華屋のシンプルな醤油、博多なら屋台のもの、は観測範囲では結構失われていった。

ラーメンで今スタンダードといえば、少し濃い目のものかもしれない。

高級ならシンプルもある。もはや食材にこだわりすぎて和食だが。

弁当屋のイートインで食べるインスタントに近いシンプルなラーメンの方が、ざっかけでかつての「東京ラーメン」に近く感じる。

 

食のスタンダードが時代によって変わってしまうのは仕方ないことだ。

ただ、その要因が単に経済的な理由だけだったら、悲しい。

少し先、多くの人々にとって「焼き鳥の味と価値」は変わるのかもしれない。工場生産焼き上げの少し時間が経って萎びたそれが「普通」になるのかも知らない。

 

それを仕方ないと思いつつ、出来るだけ職人が毎日、肉を串打ちして炭火で焼き上げる焼き鳥を寂寥感を感じづつ価値あるものとして、だけど日常のものとして、串から肉を外しもせず食べたいと思う。

 

まるで「もうすぐなくなるという紙の書物について」をまねて

「もうすぐなくなりつつある普通の焼き鳥屋というもの」を味わうのだった。