公共について考えていた
自宅勤務が結構な期間になった。
我があばら居は東京にあって、東京では2020年の4月8日から蟄居要請がでた。言葉を変えると緊急事態宣言である。
しかしまぁ、チグハグな土日は出るなよ出るなよ。とか会社生活は、大都市部だと出来るだけ家で仕事しろとか、日々更新されていくわけだが何ともまぁ歯切れが悪い。
わたし自身は公共を思う心がある人間かどうか微妙である。
社会問題やその参加、ドネーションには躊躇しないし極力やる。だけどこの国の公共心は何だか道徳みたいな気がして、自身のモラルと合わないところがある。
今回はたちの悪い流行り病が自身が加害者にも被害者にもなり得るので、利他的であり、利己的な理由で家にいる。
そしてまたどうしても外で活動しなければならない医療、インフラ、小売の方々を思えば、我が良心に照らして家を選んでる。ただそれだけだ。
多くの人ががみえている、みている公共、社会は位置によって環境によって違うだろう。
うすらぼんやりと、大声の団結や社会のため、あ「みんな」のため、と言う圧のある公共と言うものに小首を傾げ、根源的に考えなきゃいけない、と思いながら今日もMacに向かって仕事をしている。
なぜ余は自家製マスクに挑んでいるか
しょっぱい話である。
まだ我が家には普通のマスクがある。あるが。そんなに沢山はない。その他に繰り返し使えるポリウレタン製のマスク(黒)がある。
が、いくつかお仕事に行くと、だ。マスクがマナーになっている。お取引ある会社の社員はリモートになっているが出社時はマスク着用のこと。だそうである。
もはや2020年の4月初めの日本ではマスクはドレスコード。してない人信じられなーい。
という状況らしいと、先週、今週、思い知った。
んだが、COVID19の収束よりは早いかもしれないがマスクがふんだんに手に入る日は不明である。世界的に不足してるし、先なぞみえぬ。
というつまらない理由で通常の買い物、外出時は、手製マスクが必要と判断した。つまんねー話だがまともなマスクはオフィシャル用である。しかしながら、それすら尽きたら自家製しかないだろう。それでも、もし自身が知らぬうちに保菌者になった場合、人様にうつすよりマシだ。これはつまらなくない。人さまの生死をかけたくない。
現在の自家製マスクの要件定義は以下のようなものである。
・使い捨てであること
・出来るだけ手に入りやすい部材(不織布、空気清浄機フィルタなどなど)で作れること
・飛沫防止、顔面密着などの機能は有していること
・製作時間が短いこと
・装着の不愉快感がないこと
・息苦しくないこと
が要件だが、その一方でわたしには手芸の特技もなければ、その道具もない。そこで以下は捨てることにした。
・見た目(と言っても不審なほどではないように)
・完璧な機能性(だって無理だもん)
・必要以上の作り込み
こんなしょっぱい理由で作り始めたが、大体の目処はつき、現在はブラッシュアップに入っている。
出来たら公開するね。
あ、下が試作の二つです。
COVID-19関連で日本では使われない語
日本では3つの密。
(1)換気の悪い密閉空間(2)多数が集まる密集場所(3)間近で会話する密接場面
が、取り上げられているが他国のニュースを見ていると他の単語も使われているので記す。
◆社会的距離(ソーシャルディスタンス)
ウイルスの飛ぶ飛沫は約2mと言われている。なのでこれぐらいの距離を離れること。
クラスター(集団感染)が発生した場所。または、発生が頻繁に発生したところ
逆に言われて久しいがオーバーシュート(感染爆発)は英語圏では使われてないようだ。
またロックダウンを都市封鎖と日本語では紹介しているが、基本的には外出禁止、または制限が正しい。
4.3は手作りマスクを作っていた。出来たらレシピを公開する。
あと30万円の支給とか出てきたが、今のところ日本政府のグランドデザインの対策は不明だった。先週に引き続き、今週末東京は土日外出しないでください要請。
マリーと森まゆみさんのこと
『主婦マリーがしたこと』という映画は、ほぼリアルタイムで鑑賞していた。一体どこの映画館でみたのか。ル・シネマかどこか。とんと思い出せない。まだ映画の仕事をする前だったから試写会でもサンプルでもないのは間違いない。
https://allreviews.jp/review/4039
内容は森まゆみさんのこの書評にあるように(森さんが書かれたのは90年代らしい)今は2020年だからほんの70年ちょっと前、ということになる。堕胎を請負い死刑になった第二次大戦中、フランスの女性の話である。
記憶をさかのぼると地味な映画だった。
有名な監督だったせいか、主役のせいか、その頃学んでいたジェンダーのせいか、見たきっかけは思い出せない。
ただナチス占領下のフランスで、その後フランスにはそこそこ詳しくなるのだけれど、ナチへの協力者とレジスタンスの話ばかりの歴史の影で妊娠中絶を行うことで豊かになり、生活が変わり、やがて裁かれるこの婦人の話が表向きの戦いの最中で生々しいものだと思ったのは確かだった。
女性の自己決定権とは全く関係なく、日本での堕胎は明治からしばらく違法になったが延々と合法だった時期の方が長い。
水子地蔵を見る度に、頭では知ってはいても複雑な心持ちになる。
マリーは日本なら死なずに済んだだろう。その分、成り上がりもしなかっただろうが。
この映画を見たかなり後、もう森まゆみさんが谷根千のミニコミ誌を終了する頃、わたしは谷根千の住人になった。
この映画を見た頃はまだわたしは横浜の住人だったはずで、それもあまり綺麗な街並みの横浜ではなくて、雑多な中にいた記憶がうっすらある。今は漂白されたようになったあの街が全くわい雑だった。それが好きだったのかどうか。ただ今の真っ白な街並みだったらきっと住まなかったろう。
彼女が一介の主婦からミニコミ誌を立ち上げ、文筆家になる間のこの地域のことは元からの住人に聴くより他知らない。
森さんは谷根千の観光地化に反対していた。
しかして、後の住人であるわたしにとっては適度に観光地として潤う商売人さんの話を聞くにつけ、下町の上•山手の下であるこの土地に人が来るぶんにはそれ程反対もできないと考えていた。新しい住人だったからかもしれないし、取材お断り常連だけの店主たちの意地を見ていたからかもしれないし、観光客であってもそんなに他人行儀ではないこの街の馴染みの良さが好きだったからかも知れない。
不忍通りにやたらと低層マンションが建つのには閉口したから、どれもそうだったし、そうでない部分もあったのだろうと思う。
前に住んでいた築50年過ぎの水道の配管がイカレてサビ水ばかり出たアパートもすっかり綺麗なマンションに変わった。
この谷根千もすっかり変わったと言いたい所だが、あいも変わらずチェーン店も大型店もないし、どっこい古い店も生き残ってやがるし、新しい店は現れて消えるし、何年も通ってない店の店主と挨拶する。談志を見ることはなくなったが。
変わったといえば観光客に外国人が多くなって、コンビニは増えて、水があふれることもなくなって、もともと住むところは限られてるからマンションの分ぐらいしか人口は増えてない。家賃は高いし、山の上は豪邸なのはあまり変わらない。古い店がのれんや店構えを新しくしたり、ワゴンに気の利いたお土産物を置いてみたり、一代で辞めてしまった店は有るけれども。
そんなこんなで、わたしはたまたまこの土地に住んだに過ぎないが、東京暮らしのほとんどがここということになった。
観光地と言っても何がある訳じゃなし、とは言え人を惹きつける細々したものはあって、訪問者も住人も商売人も適度に入れ替わる。
だとしても。すっかりと街ごと漂白された横浜のどっかとか、再開発の東京のあそこやそこここに比べたら、ほとんど変わってないのではないかとすら思う。
川向こうの吉原にはマリーみたいな人は江戸の頃から沢山いたろうし、森まゆみさんは今の谷根千をブーブー言うと思うけれど、パリのそこかしこがクリーンになったり、ある所は移民街になったりするのと比べるとドラスティックに変化してないこの街は、やっぱり何か、そういう運命に導かれていると思うのだった。
世の中なにをどの程度知っていれば良いのか問題
ネットの世界では情報弱者、略して情弱という言葉が使われることがある。
知らないために騙された、とか知らないために損をした。的なことに使われることが多いようだ。
だがしかしだ。義務教育でわかることを別として、現代社会はあまりにも情報過多なものはある。情報には偏りがあること、またフェイクーニセ情報があること、更には知ろうと思えば理解できることの範囲が広すぎる。。。かつネットや書籍も正確な情報ばかりではない。。。とすれば、正直誰しもがどこかの分野では、情報弱者なのではないかしらと思う。
確かに携帯電話料金を、仕組みをあからさまに知らないと言うのはあるが、あんなに変更されていれば、わたしも詳しいほうだが細かいことまで全て把握していられない。
医療情報もだ。標準医療に入ってないまだ仮説段階のものをバンバンメディアで話す医師もいて、インチキかセミインチキか、標準的な療法なのか、先進的な療法なのか、それとも診断ミスなのか、あまりにも組み合わせは多い。
しかもそれが命に関わる情報だと、藁をもすがる気持ちに乗っかってくる詐欺師がいるものだから困ったものだ。
最近でも、血液一滴、尿だけでe.t.c...ガン検査が出来るというものがもてはやされたりしているが確率の問題、部位の問題が分からなければ診断に有効なのか、過剰な心配を患者に負わせるだけではないか、との指摘が医師からでている。がん検査は放射線を使うものも多く、ただひたすらに検査すれば良いというものでもないし、早期発見に必ずしも寄与しない。
金融だってそうである。ある特殊な例をあげて資産何億円。と言われたところでリスクについて明確ではない。運用はプロですらリスクがつきものだが安直なものについ目はいくし、本にもなりやすい。
詐欺の定番として「儲かるんだったら自分や仲間だけの秘密にするはず」というツッコミがある、、、が情報商材の類の詐欺は後を絶たない。情報商材は大抵、この商材をそのまんま売って、儲かる。であるが、もちろんゼロから売りつけたほうが儲かるに決まってる。少しめまいがするが当たり前である。
「常識」と簡単にひとくくりに知識を言ってしまうがネット、SNS、情報氾濫の時代に、いったい全体「何をどの程度知っておけば良いのか、日常生活にだまされずにすむのか支障がないのか」は是非とも義務教育などに組み込んでほしいものである。
と言っても、書いてる本人もこの問題は果てのないもので答えは出てない。
分かりやすく良い本が定番書として『家庭の医学』のようになれば良いと思うが。。。
IT系だったら、わたし書けるかしらん。。。
選択の迷宮
選ぶのは大変だ。
ひとまず身近な食品。
コンビニやスーパーのプライベートブランドは実は有名メーカーの受託であったり、メーカーもブランドも混乱している。
売れ筋で選ばれて最適化されているはずのコンビニの棚のドリンクは店舗によって置いてあったりなかったり定番らしきものは牛乳とコーラとポカリに他ならず、では何の根拠に置かれているかというと数字だ。
スーパーはもっとひどい。販促やら仕入れやら様々な事情で置いてある置いてないがバラバラである。いつの間にやら消えた商品。安い商品、不明な商品。同じブランドを買い続けることの方が難しい。
衣服。
ショッピングモールはどこに行っても同じような店舗が揃うが大きいか小さいかで選択の運命は変わる。しかしてモールでは廉価な品々がオリジナリティなく並ぶ。ユニクロや無印の方がまだ個性的なのではないかと思えるほど、どこでも同じように陳列されているが選ぶためというより、こんなもんが欲しいと思ってました!という品揃えである。その中から何らかを身に付けても十把一絡げになる。なるべくしてなる。
雑貨。
100円ショップのコストダウンはいじらしく、何でもかんでも同じような品揃えのちょっとだけ高い品はあるが決して品質が良いものばかりとは言えない。では何が違うのか。説明できる人は少なく、試し書きの出来る文房具店が近くにあるか、僅かなお金のギャンブルをするか、強いられた棚を眺める。
ショーケースの中にある少し高そうな雑貨がある所は少ない。
ここまでモノの選択をあげた。
しかし実はわたしの言いたいことはモノの話ではない。
モノといえば比較的選択してもらう、あるいは推薦する仕事をしていたりする。だからと言ってそんなものが多くの人に通用するとは思っていない。マーケティングの結構な無力さを感じる時がある。むしろマーケティング側から顧客を選んでいたりするのが実際でもある。
ほとんどの人々が選択の主体であると思っている。もちろん目に入る限り、求めていく限り、ある程度はそれは可能だ。お金によるし、情報にもよるし、きっかけにもよるが、『選ぶことができる」と思い込まされている。
だけれども認識できないもの、言葉を知らないものは「世界に存在しない」。
貧困や様々な生きづらさを「自己責任」とする人がいる。しかしそれらの人々は「正しく選べる」とでも思い込んでいるのだろう。
だが文化資本が関係する「妥当な選択肢」ー人間関係であれ知識であれ、教育であれ、それらが真っ当に機会の平等にあるとわたしは全く思っていない。
世界がフラット化しているなどと謎の言説があるがフラットというより、凸凹にすら触れられない。生まれついた環境によってはとわたしは考える。
何か商品をある程度の確からしさをもって選ぶことが果たして可能だろうか。もちろん、生き延びる程度には多くの人々はそれをやっている。しかしそこにすら様々な差は存在している。
では人生の岐路となってしまう沢山のしんどい選択は万人に果たして可能だったろうか。
おそらくそれは日本の国において、格差が広がるにつれどんどん不可能になってきていると考える。
選べるもの、と、選べないもの。知っていることと、知らないこと。
それが分断を生み出す。
わたしは沢山の人生の結果が良きにつれ悪しきにつれ、全て自己責任であったなどと口が裂けても言えない。勝者がたとえそういう物語にいくら酔いたいとしてもだ。