工場長の考えてること

工場長の考えてることを脳みそ直だしです。

選択の迷宮

選ぶのは大変だ。

 

ひとまず身近な食品。

コンビニやスーパーのプライベートブランドは実は有名メーカーの受託であったり、メーカーもブランドも混乱している。

売れ筋で選ばれて最適化されているはずのコンビニの棚のドリンクは店舗によって置いてあったりなかったり定番らしきものは牛乳とコーラとポカリに他ならず、では何の根拠に置かれているかというと数字だ。

スーパーはもっとひどい。販促やら仕入れやら様々な事情で置いてある置いてないがバラバラである。いつの間にやら消えた商品。安い商品、不明な商品。同じブランドを買い続けることの方が難しい。

 

衣服。

ショッピングモールはどこに行っても同じような店舗が揃うが大きいか小さいかで選択の運命は変わる。しかしてモールでは廉価な品々がオリジナリティなく並ぶ。ユニクロや無印の方がまだ個性的なのではないかと思えるほど、どこでも同じように陳列されているが選ぶためというより、こんなもんが欲しいと思ってました!という品揃えである。その中から何らかを身に付けても十把一絡げになる。なるべくしてなる。

 

雑貨。

100円ショップのコストダウンはいじらしく、何でもかんでも同じような品揃えのちょっとだけ高い品はあるが決して品質が良いものばかりとは言えない。では何が違うのか。説明できる人は少なく、試し書きの出来る文房具店が近くにあるか、僅かなお金のギャンブルをするか、強いられた棚を眺める。

ショーケースの中にある少し高そうな雑貨がある所は少ない。

 

ここまでモノの選択をあげた。

 

しかし実はわたしの言いたいことはモノの話ではない。

モノといえば比較的選択してもらう、あるいは推薦する仕事をしていたりする。だからと言ってそんなものが多くの人に通用するとは思っていない。マーケティングの結構な無力さを感じる時がある。むしろマーケティング側から顧客を選んでいたりするのが実際でもある。

 

ほとんどの人々が選択の主体であると思っている。もちろん目に入る限り、求めていく限り、ある程度はそれは可能だ。お金によるし、情報にもよるし、きっかけにもよるが、『選ぶことができる」と思い込まされている。

だけれども認識できないもの、言葉を知らないものは「世界に存在しない」。

 

貧困や様々な生きづらさを「自己責任」とする人がいる。しかしそれらの人々は「正しく選べる」とでも思い込んでいるのだろう。

だが文化資本が関係する「妥当な選択肢」ー人間関係であれ知識であれ、教育であれ、それらが真っ当に機会の平等にあるとわたしは全く思っていない。

世界がフラット化しているなどと謎の言説があるがフラットというより、凸凹にすら触れられない。生まれついた環境によってはとわたしは考える。

 

何か商品をある程度の確からしさをもって選ぶことが果たして可能だろうか。もちろん、生き延びる程度には多くの人々はそれをやっている。しかしそこにすら様々な差は存在している。

では人生の岐路となってしまう沢山のしんどい選択は万人に果たして可能だったろうか。

おそらくそれは日本の国において、格差が広がるにつれどんどん不可能になってきていると考える。

選べるもの、と、選べないもの。知っていることと、知らないこと。

それが分断を生み出す。

 

わたしは沢山の人生の結果が良きにつれ悪しきにつれ、全て自己責任であったなどと口が裂けても言えない。勝者がたとえそういう物語にいくら酔いたいとしてもだ。