デジタルでわたしはどこまでわたしを管理できるだろう。
いやいや。ドコモ口座の件に端を発して、爆発したゆうちょ銀行やらむしろ訳が分かってない多くの方々の口座を自己確認せよ、などとたわけたことをなされておりますが。
ま、先は見えませんな。
それは一旦置いておいてですよ。
COVID-19で家にいる事が多くなって現金をおろす機会もかなり減って。まぁ、カードや非接触決済で大概のことをこなしてます。
何ですが、まあ幾つか気分やキャンペーンや、諸々で使い分けてると、購買した店も位置もタクシー移動も、電車も。。。まあ気がつけば利用規約範囲内で「わたしの情報」は既にコントロールなんか効かない訳ですよ。もちろん詐欺にあったら掘るだろうし、カードの不正利用とか、もちろん限度額とか予算とかは有るとしても、日々コレやってることなんて大概垂れ流しですよ。もちろん、個人が特定されない40台、男性、東京在住とかで識別ギャザリングされてる訳ですが。こんなもんいちいちオプトアウトする気すら起きない。もししたければ現金だけを使うしかないです。
お金でなくてもキャリアのWi-Fiを捕まえてしまったり、マップを使ったり、それでも情報は流れるです。
根源的にどこまでのプライバシーの基準を管理できるかというと、限りなく出来ない。
ラブホテルが現金のみ可能。ってのはむしろよいかもしらないです。
コンビニの監視カメラも道路のも、近所のビルに警察がつけさせてくれと言ってたのも、NシステムもETCも。まー。管理方面に使ってないという紳士協定を信用してるだけで技術的にも、理由さえあれば「たまたま犯罪の近くにいて容疑がかかった」とかで使われたりもする訳すね。
それに、どこの監視カメラがどんなタイミングで上書きされ記録が消えるかなんて、全然わかんない。
プライバシー権は当たり前にあるはずですよ。たとえCOVID-19下のアプリに協力しても、AppleとGoogleががんばった部分だけマスキングされるだけで濃厚接触だけでなく感染する例もあるので、いる場所はクラスタが発生したら言わなきゃだよね。ってことはあるでしょう。
中国のひどい管理社会は性悪説に基づき運用されていて、もちろん一党独裁、悪口厳禁、政権批判もってのほか。って人間抑圧に使われてて、途方もなくけしからんですが、今、現在の日本の都市部の監視装置はそれぞれ連携してないことと、利用規約と性善説に任せられていて、比較的こういうテクノロジーに詳しいと自負する自分でさえ、コントロール不可能だと思ってます。逃げ回る装備を考えられるし、それでかなりは避けられるかもしれないけど便利さを個人的に選んじゃってますよ。
デジタル化云々というのを大騒ぎしてるんだけど、そもそもの話として「わたしのコントロールできるプライバシー(機微)情報」の一定の社会常識は形成されてほしいし、それを解除できる方法も明確化してほしい。そうでないと無限に広がるビッグデータですらないバラバラの「情報としてのわたし」は全く私権としてコントロールを行使できないです。それにどんな手間が必要なのかすら想像できない。
金融事故はそもそも「与信および自己の証明」がなってなくて起きてる訳ですが、同時に「わたしの情報ここら辺で打ち止め。リセット」がないと社会一般の情報倫理頼りになったり、政府のシステム突破されたらまる裸。もあり得ますね。
デジタルにおける私権のありよう。何処かまでをリセットする権利。がないとこのデジタル化の「与信を提供する」は延々とどこにあるのか保管期間も分からず、自分のゴーストのようにふわふわ存在してそうで気持ち悪い。です。
そしてそれはもう既にある程度、実現されてますね。
ぴえん。
法空間学についてのメモランダム COVID-19下において
2020年3月からの本邦のCOVID-19状況下で、当初わたしはこの国の「公共」について検討すべきものと個人的に考えていた。
だが、それは違った。
感染性の強いウイルスであるため保健所の管轄となる。保健所は地方行政の所管であるため、対策の現場は地方自治体単位となる。
ここでは地方自治体への届出、許認可である店舗やサービス業は問題とならなかった。
しかし奇妙な法や法令の適用空間のねじれは発生した。顕著なのが東京を中心とする関東圏、大阪を中心とする関西圏である。
生活圏、商圏、労働圏と自治体をまたいでしまう関係が厳然と露呈し、都道府県の上位の行政単位が中央政府しかないため、実効性のある政策が実現しづらくなった。
他の幾つかの国と異なり、地方行政政府がないことで地方自治体における令の制定では適用不可能な空間が出現した。
これを「実効法の適用不可能空間」と仮に名付ける。
法社会学が議論してきた「生きられた法」とは異なり、「生きている圏」と行政単位が不一致になっていることを指す。
単なる徴税および行政サービスは居住地単位で齟齬がなかったのかもしれないが、本来「生きている圏」で行政措置、特に地方自治体では噛み合っていない。
中央政府の法が一律平等に施行されることは当たり前であるとしても、地方自治体単位だけで「生きていない国民」がいる以上、条例や行政命令は国民の生活空間に届かないこととなり、これは行政単位の不手際となる。
従前まで法学においては「法の適用範囲」については議論があっても地理や生活圏を含む「法の適用空間」については議論が少なかったように思う。
対応の良し悪しはともあれ、この場合、行政が生活圏とある程度一致している州政府を持つ他国の「法空間」は災害、医療、警察などのサービスにおいて有利に働いたのではないかと考える。
少なくとも東京周辺の一都三県という生活圏が交差する行政での各自治体の対応の違いのようなこと発生しなかったはずだ。
わたしは公共圏の問題としてこのような疫病の流行を考えようとしていたが、異なる移動を含めた「生きている場所」と法的に地方行政が可能な空間の齟齬がいくつかの自治体で発生し、その不可解さの方が気になった。
法が現実の生活圏に沿って作用可能な地理的、移動的空間について議論が必要なのではないか。
道州制や地方分権といった言葉より、疫病や災害といった行政単位をまたぎ「生きられている空間」での法的作用の議論が必要に思う。
そうなればこそ、行政単位と生活への法や行政の作用が一意の効用として議論されるだけで無く、人文地理や社会学、地方行政学と交差する
「法空間」についての学の必要性が問われると考える。
誰がためのワイダニット
ミステリー推理小説にはワイダニット、フーダニット、ハウダニット、という言葉がある。Why done it? Who done it? How done it?
それぞれなぜ?誰が?どのように犯行に及んだのか。という意味だ。
トゥルーマン・カポーティはミステリ作家ではないが悲惨な実際の殺人『冷血』で加害者、被害者を取材し、期せずしてノンフィクションノベルの最初の小説家となった。加害者の境遇に思いを寄せたらしく、この本はよく売れたがその後長編が書けなくなった。
昨年の夏、ひどい殺人事件があった。京都の放火で36人が亡くなり、まだ入院中の被害者もいる。加害者も火傷をし、昨日、半年強の加療ののち、まだ歩けないが逮捕され、取調べをうけている。
もう、フーダニット、ハウダニットはわかっている。
しかしワイダニット。なぜかは分からない。その動機を解明したところで常識的な意味で理解できるかどうかは分からない。もちろん遺族被害者にも腑に落ちることもないだろう。
それでもなお、加害者自らが裁判も通じ理由を語ってこそ事件は新たな姿を示す。そしてこの大量殺人の記録と判例は残る。
このような加害者を医療従事者が懸命に看病をし、しゃべれるようになるまで回復させたことに異論がある人もいるかもしれない。
だけれども加害者が償えるかどうか、何故かが理解できるかはさておき、当事者が語ることでこの事件が何だったのか少しでも記録が深く残り、考えられ、事件の全貌も、たとえ加害者側からのものだとしても、わかる。
誰のためでもないかもしれないが、陰惨な事件のワイダニットは後学のためにもそして、事件が風化されないためにも。加害者自身によって語られねばならない。
わたし自身この事件は、無論カポーティほどではないにせよ、未だに傷になっている。
少しでも事件が加害者によってWhy?を語られることによって、故人の犠牲が後に残る。このために医療従事者は努力してきたのだと思う。
遺族や関係者の計り知れない痛みはわからないが、わたしはこの医療者たちに感謝したい。
トウキョーの果て
昔、フィツジェラルドがビルに登って「なんだニューヨークに果てがあるじゃないか」とかエッセイに書いてた。
行政の境の移動自粛と言われましても、荻窪辺りに行くと、高いビルはないなぁと思うし、練馬でもさいたまのデカいマンションが見えたりする。
東京の境なんて限りなく曖昧でネズミーでも、空港でも、町田!?でもなんだかかんだかどこまでが東京の生活圏なのかさっぱり分からない。だから隣接して生活圏や仕事圏が東京だという人は電車や道が通っていれば東京かも知れないし、郊外って言えばざっくり国道16号線なのか、環状線なのか。首都高なのか。さっぱりと東京の果てはない。
そんなことだからトーキョーってきっと概念に過ぎないけどSARS-COV2は人で伝搬するので、東京に依拠して生活する人にとってはその導線そのものが感染経路なのでクラスターと言われて夜のお店と言われても実にピンとこない。
トーキョーではあるが多摩の場末の熟女クラブはきっとクラスターにならないし、閑散とした幹線のカラオケ屋はクラスターにならない「可能性が高い」と思う。
トーキョーとかの大都市が無限に増殖する概念と、ある職種や場所が感染に縛りつけられたり、反対に広い意味でのトーキョー基準で行動を制限されることはまるで全国放送のテレビ番組でもやたらと都市の話しかしないように蝕んでいくもう一つの病のようにきっと果てがないのだと、ウイルスに教えてもらったりする。
ニューノーマル(和名新しい生活様式)について
これについては思うところが多い。
元々の日本の伝統経済の意味不明の仕事しかた、非正規、パワハラまがいの業務遂行、そして、行動変容を変えられない人への目線が全くない。
わたしは政府が中心でダメでないしても、ある程度の社会成層に語りかけられ、実践できるものでないと絵に描いた餅だと思う。ビジョンが大きすぎることなく、多くの人に実行可能なこと。
それにはもちろん、補償、経済の維持、今後の見通し、難しい。
だからこそ、様々な人がいることをせめて理解して発表してほしいのだった。
公共について考えていた
自宅勤務が結構な期間になった。
我があばら居は東京にあって、東京では2020年の4月8日から蟄居要請がでた。言葉を変えると緊急事態宣言である。
しかしまぁ、チグハグな土日は出るなよ出るなよ。とか会社生活は、大都市部だと出来るだけ家で仕事しろとか、日々更新されていくわけだが何ともまぁ歯切れが悪い。
わたし自身は公共を思う心がある人間かどうか微妙である。
社会問題やその参加、ドネーションには躊躇しないし極力やる。だけどこの国の公共心は何だか道徳みたいな気がして、自身のモラルと合わないところがある。
今回はたちの悪い流行り病が自身が加害者にも被害者にもなり得るので、利他的であり、利己的な理由で家にいる。
そしてまたどうしても外で活動しなければならない医療、インフラ、小売の方々を思えば、我が良心に照らして家を選んでる。ただそれだけだ。
多くの人ががみえている、みている公共、社会は位置によって環境によって違うだろう。
うすらぼんやりと、大声の団結や社会のため、あ「みんな」のため、と言う圧のある公共と言うものに小首を傾げ、根源的に考えなきゃいけない、と思いながら今日もMacに向かって仕事をしている。