工場長の考えてること

工場長の考えてることを脳みそ直だしです。

芦田愛菜という呪い

 

芦田愛菜さんが、なんだか日本の偉い人がアレだ。お役につくので着物を着てお話をされた。わたしは這いつくばって映画観ていたので見てないがさぞや素晴らしいご挨拶だったのでございましょうと思う。


芦田愛菜さん2019年現在15歳(以下敬称略)について語るほどの知識があるかというと、ほんまに幼少時から完璧な子役をこなし、マルマルだのモリモリだのヒットソングを出し、ロボット映画で絶叫シーンだけ出演したことぐらいは知っている。その当時はあまりにも的確な演出家からの指示、あいさつ、礼儀など完全に成人し達観しているかのような立ち居振る舞いで子どもの姿に大人の意識をインストールしたサオボーグ説が出ていたのも知っている(もちらん、おそらくそうではない)。てな程度であって一般的に知ってる程度だろう。


それに愛読家で(ま、ここだけは親近感をもつ)背筋がピンとしていて、携帯電話会社のCMでは謎の大人たちを仕切り、それにつけても完全にジャンルとしての「芦田愛菜」を確立あそばされているようである。


さらに言えばここしばらくの皇位権を継ぐ関連の公共放送でも完璧なトークをこなしておられるらしい。恐るべし芦田愛菜
しかも面立ちはそれほどまでには(基準は一旦さておき)美形というより可愛らしく、清潔感があると言う印象で、ここもまたあえてなのかもしれんけど控えめであり、多くの方に最低でもdisられたりはしないんだろうと思う。
わたしも可愛らしく、清潔感があるのは認める。
もしかすると日本の皇族より皇族らしいなどという不敬にあたんじゃねーの、などというものもいて。ま、この辺は突っ込むのやめよう。ま現況メディアに出ている中では、日本文化(一部の人の妄想だと思ってるけどさ)の好まれる女性の1人なんだろう。


しかし、芦田愛菜にはコレらをゴッチャにして、固めて、インストールして、特に使っているわけか知らんが、ここら辺の物事が取り込まれていることによって一種の「呪い」がかけられているとわたしは思うのだ。もちろん、芦田愛菜、あるいはそれを育んだ環境に恵まれ、彼女のように生まれ育ったら生まれ、どんなにうらやましいか、という個人的感情については言及させないでいただきたい。


芦田に近い境遇の方として、福原愛さんと羽生結弦さん(以下同様に敬称略)を取り上げたい。
特に福原は同様に幼少時からメディアのようも悪くもメディアの寵児だった。羽生も同様にある時期からそうだった。
彼らも容姿にも才能にも恵まれ、注目をされ続け、ほぼ監視に近かったかも知れぬ。とは言え、これは芦田愛菜の呪いの根幹となるものとの決定的な違いがある。


福原は卓球で明確なライバル、目標、敵があった。結果を成し遂げた彼女は外国の伴侶を得て、日本を離れたりもしている。
羽生は、もちろん現役であるがスケートという目標、ライバル、敵があった。金メダルを獲得してなお、あの中性的かつ魅了的なビジュアルより、彼は結果にこだわるだろう。

 

では、芦田愛菜は何と闘うのだろうか。
おそらく彼女は女優だ。しかし、このわずか15歳で完璧にしつらえられた上品、知性、良い人、というパブリックイメージは社会にある程度に認知されている。
今後、成長に伴い女優をやる上で、イメージが違うだの、チャレンジだの、と揶揄されかねない。
つまり、福原や羽生のように競技に勝つ、引退という明確なゴールはない。
芦田愛菜自身の振る舞いに責任があるかはわからないが、彼女の呪いは主に世間にかけられたものだ、とわたしは考えている。


同じように子役でブレークし、社会的運動にもコミットしたエマ・ワトソンは社会との対峙の仕方を彼女なりに確立した。
しかし、ここは日本だ。政治的な発言も価値観に関しても、無難が好まれる。いや、むしろそれに触れないのが賢いとされている。まさに芦田愛菜がそうしたように。

 

わたしが勝手に予言しているものであるが、芦田愛菜にかけられるであろう呪いは、今後どのように展開し、解消されるのだろうか。
それとも、単なる優等生として消費尽くされ消えていくのだろうか。
それは芦田愛菜だけの問題ではない。多くの同世代の子供たち、青少年がかけられている呪いでもあると思うのだ。

世間の多くが望む青少年像を彼女が完璧にこなせばこなすほど、この呪いは深まっていく。

芦田にかかるであろう、若い方への呪いが解かれ、むしろわたしは社会が変革され受け入れられることを望んでいる。

 

ただ、それについてわたしは年少者を型にはめたがる日本社会に悲観しているのだが。