工場長の考えてること

工場長の考えてることを脳みそ直だしです。

COVID-19関連で日本では使われない語

日本では3つの密。

(1)換気の悪い密閉空間(2)多数が集まる密集場所(3)間近で会話する密接場面

が、取り上げられているが他国のニュースを見ていると他の単語も使われているので記す。

 

◆社会的距離(ソーシャルディスタンス)

ウイルスの飛ぶ飛沫は約2mと言われている。なのでこれぐらいの距離を離れること。

 

ホットスポット

クラスター(集団感染)が発生した場所。または、発生が頻繁に発生したところ

 

逆に言われて久しいがオーバーシュート(感染爆発)は英語圏では使われてないようだ。

またロックダウンを都市封鎖と日本語では紹介しているが、基本的には外出禁止、または制限が正しい。

 

4.3は手作りマスクを作っていた。出来たらレシピを公開する。

あと30万円の支給とか出てきたが、今のところ日本政府のグランドデザインの対策は不明だった。先週に引き続き、今週末東京は土日外出しないでください要請。

 

 

 

 

マリーと森まゆみさんのこと

『主婦マリーがしたこと』という映画は、ほぼリアルタイムで鑑賞していた。一体どこの映画館でみたのか。ル・シネマかどこか。とんと思い出せない。まだ映画の仕事をする前だったから試写会でもサンプルでもないのは間違いない。

 

https://allreviews.jp/review/4039

 

内容は森まゆみさんのこの書評にあるように(森さんが書かれたのは90年代らしい)今は2020年だからほんの70年ちょっと前、ということになる。堕胎を請負い死刑になった第二次大戦中、フランスの女性の話である。

記憶をさかのぼると地味な映画だった。

有名な監督だったせいか、主役のせいか、その頃学んでいたジェンダーのせいか、見たきっかけは思い出せない。

ただナチス占領下のフランスで、その後フランスにはそこそこ詳しくなるのだけれど、ナチへの協力者とレジスタンスの話ばかりの歴史の影で妊娠中絶を行うことで豊かになり、生活が変わり、やがて裁かれるこの婦人の話が表向きの戦いの最中で生々しいものだと思ったのは確かだった。

女性の自己決定権とは全く関係なく、日本での堕胎は明治からしばらく違法になったが延々と合法だった時期の方が長い。

水子地蔵を見る度に、頭では知ってはいても複雑な心持ちになる。

マリーは日本なら死なずに済んだだろう。その分、成り上がりもしなかっただろうが。

 

この映画を見たかなり後、もう森まゆみさんが谷根千ミニコミ誌を終了する頃、わたしは谷根千の住人になった。

 

この映画を見た頃はまだわたしは横浜の住人だったはずで、それもあまり綺麗な街並みの横浜ではなくて、雑多な中にいた記憶がうっすらある。今は漂白されたようになったあの街が全くわい雑だった。それが好きだったのかどうか。ただ今の真っ白な街並みだったらきっと住まなかったろう。

 

彼女が一介の主婦からミニコミ誌を立ち上げ、文筆家になる間のこの地域のことは元からの住人に聴くより他知らない。

 

森さんは谷根千の観光地化に反対していた。

しかして、後の住人であるわたしにとっては適度に観光地として潤う商売人さんの話を聞くにつけ、下町の上•山手の下であるこの土地に人が来るぶんにはそれ程反対もできないと考えていた。新しい住人だったからかもしれないし、取材お断り常連だけの店主たちの意地を見ていたからかもしれないし、観光客であってもそんなに他人行儀ではないこの街の馴染みの良さが好きだったからかも知れない。

 

不忍通りにやたらと低層マンションが建つのには閉口したから、どれもそうだったし、そうでない部分もあったのだろうと思う。

 

前に住んでいた築50年過ぎの水道の配管がイカレてサビ水ばかり出たアパートもすっかり綺麗なマンションに変わった。

 

この谷根千もすっかり変わったと言いたい所だが、あいも変わらずチェーン店も大型店もないし、どっこい古い店も生き残ってやがるし、新しい店は現れて消えるし、何年も通ってない店の店主と挨拶する。談志を見ることはなくなったが。

 

変わったといえば観光客に外国人が多くなって、コンビニは増えて、水があふれることもなくなって、もともと住むところは限られてるからマンションの分ぐらいしか人口は増えてない。家賃は高いし、山の上は豪邸なのはあまり変わらない。古い店がのれんや店構えを新しくしたり、ワゴンに気の利いたお土産物を置いてみたり、一代で辞めてしまった店は有るけれども。

 

そんなこんなで、わたしはたまたまこの土地に住んだに過ぎないが、東京暮らしのほとんどがここということになった。

観光地と言っても何がある訳じゃなし、とは言え人を惹きつける細々したものはあって、訪問者も住人も商売人も適度に入れ替わる。

だとしても。すっかりと街ごと漂白された横浜のどっかとか、再開発の東京のあそこやそこここに比べたら、ほとんど変わってないのではないかとすら思う。

川向こうの吉原にはマリーみたいな人は江戸の頃から沢山いたろうし、森まゆみさんは今の谷根千をブーブー言うと思うけれど、パリのそこかしこがクリーンになったり、ある所は移民街になったりするのと比べるとドラスティックに変化してないこの街は、やっぱり何か、そういう運命に導かれていると思うのだった。

 

 

 

 

世の中なにをどの程度知っていれば良いのか問題

 

ネットの世界では情報弱者、略して情弱という言葉が使われることがある。

知らないために騙された、とか知らないために損をした。的なことに使われることが多いようだ。

 

だがしかしだ。義務教育でわかることを別として、現代社会はあまりにも情報過多なものはある。情報には偏りがあること、またフェイクーニセ情報があること、更には知ろうと思えば理解できることの範囲が広すぎる。。。かつネットや書籍も正確な情報ばかりではない。。。とすれば、正直誰しもがどこかの分野では、情報弱者なのではないかしらと思う。

 

確かに携帯電話料金を、仕組みをあからさまに知らないと言うのはあるが、あんなに変更されていれば、わたしも詳しいほうだが細かいことまで全て把握していられない。

 

医療情報もだ。標準医療に入ってないまだ仮説段階のものをバンバンメディアで話す医師もいて、インチキかセミインチキか、標準的な療法なのか、先進的な療法なのか、それとも診断ミスなのか、あまりにも組み合わせは多い。

しかもそれが命に関わる情報だと、藁をもすがる気持ちに乗っかってくる詐欺師がいるものだから困ったものだ。

 

最近でも、血液一滴、尿だけでe.t.c...ガン検査が出来るというものがもてはやされたりしているが確率の問題、部位の問題が分からなければ診断に有効なのか、過剰な心配を患者に負わせるだけではないか、との指摘が医師からでている。がん検査は放射線を使うものも多く、ただひたすらに検査すれば良いというものでもないし、早期発見に必ずしも寄与しない。

 

金融だってそうである。ある特殊な例をあげて資産何億円。と言われたところでリスクについて明確ではない。運用はプロですらリスクがつきものだが安直なものについ目はいくし、本にもなりやすい。

 

詐欺の定番として「儲かるんだったら自分や仲間だけの秘密にするはず」というツッコミがある、、、が情報商材の類の詐欺は後を絶たない。情報商材は大抵、この商材をそのまんま売って、儲かる。であるが、もちろんゼロから売りつけたほうが儲かるに決まってる。少しめまいがするが当たり前である。

 

「常識」と簡単にひとくくりに知識を言ってしまうがネット、SNS、情報氾濫の時代に、いったい全体「何をどの程度知っておけば良いのか、日常生活にだまされずにすむのか支障がないのか」は是非とも義務教育などに組み込んでほしいものである。

 

と言っても、書いてる本人もこの問題は果てのないもので答えは出てない。

分かりやすく良い本が定番書として『家庭の医学』のようになれば良いと思うが。。。

IT系だったら、わたし書けるかしらん。。。

 

 

 

 

選択の迷宮

選ぶのは大変だ。

 

ひとまず身近な食品。

コンビニやスーパーのプライベートブランドは実は有名メーカーの受託であったり、メーカーもブランドも混乱している。

売れ筋で選ばれて最適化されているはずのコンビニの棚のドリンクは店舗によって置いてあったりなかったり定番らしきものは牛乳とコーラとポカリに他ならず、では何の根拠に置かれているかというと数字だ。

スーパーはもっとひどい。販促やら仕入れやら様々な事情で置いてある置いてないがバラバラである。いつの間にやら消えた商品。安い商品、不明な商品。同じブランドを買い続けることの方が難しい。

 

衣服。

ショッピングモールはどこに行っても同じような店舗が揃うが大きいか小さいかで選択の運命は変わる。しかしてモールでは廉価な品々がオリジナリティなく並ぶ。ユニクロや無印の方がまだ個性的なのではないかと思えるほど、どこでも同じように陳列されているが選ぶためというより、こんなもんが欲しいと思ってました!という品揃えである。その中から何らかを身に付けても十把一絡げになる。なるべくしてなる。

 

雑貨。

100円ショップのコストダウンはいじらしく、何でもかんでも同じような品揃えのちょっとだけ高い品はあるが決して品質が良いものばかりとは言えない。では何が違うのか。説明できる人は少なく、試し書きの出来る文房具店が近くにあるか、僅かなお金のギャンブルをするか、強いられた棚を眺める。

ショーケースの中にある少し高そうな雑貨がある所は少ない。

 

ここまでモノの選択をあげた。

 

しかし実はわたしの言いたいことはモノの話ではない。

モノといえば比較的選択してもらう、あるいは推薦する仕事をしていたりする。だからと言ってそんなものが多くの人に通用するとは思っていない。マーケティングの結構な無力さを感じる時がある。むしろマーケティング側から顧客を選んでいたりするのが実際でもある。

 

ほとんどの人々が選択の主体であると思っている。もちろん目に入る限り、求めていく限り、ある程度はそれは可能だ。お金によるし、情報にもよるし、きっかけにもよるが、『選ぶことができる」と思い込まされている。

だけれども認識できないもの、言葉を知らないものは「世界に存在しない」。

 

貧困や様々な生きづらさを「自己責任」とする人がいる。しかしそれらの人々は「正しく選べる」とでも思い込んでいるのだろう。

だが文化資本が関係する「妥当な選択肢」ー人間関係であれ知識であれ、教育であれ、それらが真っ当に機会の平等にあるとわたしは全く思っていない。

世界がフラット化しているなどと謎の言説があるがフラットというより、凸凹にすら触れられない。生まれついた環境によってはとわたしは考える。

 

何か商品をある程度の確からしさをもって選ぶことが果たして可能だろうか。もちろん、生き延びる程度には多くの人々はそれをやっている。しかしそこにすら様々な差は存在している。

では人生の岐路となってしまう沢山のしんどい選択は万人に果たして可能だったろうか。

おそらくそれは日本の国において、格差が広がるにつれどんどん不可能になってきていると考える。

選べるもの、と、選べないもの。知っていることと、知らないこと。

それが分断を生み出す。

 

わたしは沢山の人生の結果が良きにつれ悪しきにつれ、全て自己責任であったなどと口が裂けても言えない。勝者がたとえそういう物語にいくら酔いたいとしてもだ。

 

わたしは何故セキュリティを(も)仕事にしたのか

 

ほとんどの仕事はITのエンタメ絡みだが、この一年半ほど、セキュリティ商品を扱って学んできた。仕事だから詳細は言えないけど何とか今年からお金になる。

 

さて何故わたしはセキュリティをやっているのか。

 

商品の特性もあるけれど、スマホであれセキュリティ商品であれ人間の信用「何を信じて生きているのか」に関わっている。

わたしの専門はコミュニケーションだが「信じている構造」はずっと学問をやっている頃から(今もやってる?)わたしの関心の一つであった。

 

騙されることも信じることが叶えられることも表裏一体だ。いったん信じなければ騙されもしない。

プラセボも、初詣も、宗教も、法律も、お料理も健康も刑事罰も生活の大部分はある程度の信用がなければ成立しない。

セキュリティは多くの人にとってブラックボックスだと思う。

 

完全なる安全などと言うものはないと思うけれど、ITは特にしんようと裏返しの不安がまだまだつきまとっているし、分からないと言うことが不信を生むし、これを利用した詐欺師も事件も後を絶たない。

 

なのでセキュリティをむしろ安心できるものとして研究し、仕事の一部にすることにした。

確かに技術的に難しい部分はあるが、恐怖を煽るのではなく、むしろある程度の安心を担保するために仕事にしている。

 

どうも世の中は特に日本では、ほぼ完全な安全安心を求めたがる。

しかしネットの世界やテクノロジーでは目に見えないこともあり、それが信じる世界として成立しづらい。

それを翻案して普通の人々、働く人々、生活者の目線まで下ろして行きたい。

難しいことを専門家に任せず、ある程度の理解でも安全性が保証されること。保険でも証券でも、難しいことを甘言に変えて騙しとは言えないがそれに近いことを感じることがある。

 

信用創造の過程が分かりやすくなり、『普通の人々」が使えるものにすること。それが実現することは21世紀の課題だと思う。

出来るかどうか分からないが個人情報が自分でコントロールできること。このことこそある種の自己責任を果たすことで、生き死にの問題まで自己責任にさせられることはない、とわたしは思っている。

テクノロジーにある程度知識がある(と考えている)わたしですら完全にそれができているとは言えないが、自分の情報をある程度管理できることはわたしの自己責任だと思う。

 

少し大げさだけれど、21世紀の初頭には少しづつでも何かを信じられるようにテクノロジーを使えなければ、疑いと他人への不信が蔓延してしまうと思う。既にそうであるとも思うけれども。

 

上記のような理由でわたしはセキュリティに挑む、ネガティブでなくポジティブに安心感をテクノロジーで実現すること、理解しやすくすること、生活や仕事に支障を感じないこと。これは今年のわたしの課題だし、またわたしの「信の構造」を解明する人間への関心の一つでもある。

どんなに技術や世の中が複雑化しようとも何かを信用できなければ生きていけないのだ。だが、わたしの国ではそれが異常に簡単にしようとするあまり成立できてないと考えている。

 

セキュリティというと何か遠い世界のもののようだが、わたしはそれを生活圏にまで下すためにセキュリティーヒトが安全だと考え、生きやすくすること。

そのためにセキュリティの仕事をしているのだ。

 

 

 

外国人は今日も働く

元旦に中華を食べに行った。

 

その店が元日でもやっていることは分かっていた。昨年もそうだったから。

やたらと羊があるので東北地方出身の中国人シェフかもしれない。その店で生まれて初めて羊肉の皮の厚い餃子を食べた。

四川風の定番があるかと思えば、ウイグル風という麺も炒め物もある。ウイグルに行ったことのないわたしは、ウイグルの味がどんなものかは分からないが普通の中華ではないことだけは分かった。

 

青菜と卵と椎茸の餃子を食べた。こいつも生まれて初めて食べるもので、いわゆる餃子の概念とは違うもので練り込んだ青菜の緑の皮と卵と椎茸とニラが入った柔らかな餡は日本風にラー油と酢と醤油で食べるべきなのかわからなかった。

それにウイグル風の麺を食べた。それが中国本土で普通のウイグルなのか全くわからない。

 

ロンドンにいた時もパリでも、日曜であれクリスマスであれ、ホリデーであれ、観光客向けのデパートや土産屋ではなくて夜遅くまでやっている、コンビニのようなよろず屋とたばこ屋と食べ物屋は大抵外国人の店だった。

 

法律で休みには高い時給を払わなきゃ行けないヨーロッパで、その店員のインド系やアラブ系やアジア系の外国人はそんなお金をもらっているのか分からない。店によっては近所の友人だかがたむろしているけれども、初回こそギョッとするが慣れてしまえばどうということはない。

 

彼らは決して愛想が良いわけではないがたとえ生粋の、肌の色はともあれイギリス人もフランス人の店も安いところは愛想は悪い。

であっても夜中に家に食い物がなければそこに頼るしかないのだ。背に腹は変えられない。ただひたすらにまずいパック飯とビールでもないよりはマシだ。

 

1月1日の中華屋にも日本人はおらず店員の友人が一つのテーブルを囲んで何やら楽しげに会話をしていた。聞き取れる限り北京語だった。店の食い物ではなく何かを持ちよっていた。2020年の旧正月は1月25日からだそうだ。

休みを取るのかどうかはあえて聞かなかった。

 

日本語を喋るのが自分たちだけなのを楽しみながらヨーロッパの働く外国人を、きっとその多くは移民なのだろう、を思い出していた。

 

中華屋はそれらに比べれば遥かに美味く、店員は愛想も良い。

だけれども、きっと何一つ変わらない働く外国人を思うのだった。

新年ハオと世界の終わり

あけましておめでとうございます。
みなさん、そこんとこひとつよろしくお願いします。

 

元日にふさわしい一文をしたためようと思ったがそもそも私はおめでたい人間ではなかった。

 

アタマの方はかなりおめでたいし運も悪くはないと思い込んでいるが、それはさておく。


どれぐらいオメデタクないかと言うと先日、とあることで経口にて結構な量の血を吐いたのだがその血の赤さを見て、生きているって素晴らしい。と考えるぐらいオメデタクない。おめでたければそれで何某かの病を心配したり直ぐに病院に駆け込んだりするのだろうが生きている実感が薄れつつあったので先ずやったことはスマホのカメラでそれを撮影することとティッシュでそれを拭き取ることだった。


後ろ半分は常識的だが、前半部においてはちょっとアンタ大丈夫?という感じだ。

 

知人のT君がタトゥーを入れて痛みを感じて以来グロいものが見れなくなった、と言っていたがその見事なタトゥーに比して痛いことで肉体を復権させたのだから三島由紀夫が肉体改造に励んだぐらいそれはおめでたいことだと思うし、当然の感覚だとも思う。


オメデタクない私は血を見て我を見る(木を見て森も見る的)ぐらい肉体が既に喪失感マックスなのであって、もちろん生活に支障がない程度に身体を維持できているからこそなのだろうが全き、ダメ絶対、ここはどこ?わたしのカラダはどこかいな?という不幸とすら言えないところがオメデタクない。自分の血は新鮮だが人の血を見ても何も思わない。ので先述のT君とは違いスプラッターだろうがゴアだろうが他人の鮮血が私にダイブしてこない限り平気だ。


1999年に世界が終わると信じていた私のようなかつての純真キッズにしてみれば21世紀はすべからく余興である。
で、この私的にはエクストラタイムの茶番が20年目を迎えた。


みなさまにおかれてましては輝かしい2020年がはじまったわけだが五輪だのなんだのどうもややこしそうな気配はするし、先進諸国は皆々ほとんど先行きが不透明らしい。科学万能のらららの子も裏切られ、政治もクソだし、人間の再生産はこの国でも行き詰まってるし、いとおかしみとつらみマックスである。


とは言え、よるとしなみと言うのはよく出来たもので、世界が破滅するというのは世界規模のパンデミックだの核戦争だの大陸プレート移動だの、隕石が飛んでくるだののイメージだったがどうにも世界はずるずると継続していき、確率としては世界がそんな目に合う前にこっちの肉体や精神がくたばる方が早そうだと言うことは悟りつつある。


自分自身にとって世界の終わりは自己が認識できないことでヘビーな認知症や死を意味する。そしたら兎も角も私にとっての世界は終わり、世界は消失する。

 

たかが世界の終わり

 

って言う映画もあった。

 

まあ世界がマイルドに悪くなるうちに、マイルドに良くなる部分もあり多くの先進諸国のみなさまにおかれましては、もーにっちもさっちも行かねえよ。と思ってるが、何とかなるようにしかならないし、それでも他人さまが若いとか、国の発展がこれからとか、その他もろもろのさまざまな方々にとって新年はめでたい。


かつて私にもあったキッズ時代の夏休みのラジオ体操が意味なくめでたく輝かしいものだったように。

 

新年ハオ、謹賀新年。

 

未来ある全てのものに幸あれかし。